■
内田樹の研究室からコピペ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「学力」も同じである。
ほとんどの人はこれを「成績」と同義語で、点数化し、優劣を比較できるものと思っている。
けれども、学力とは文字通り「学ぶ力」のことである。
それはたまたま外形的に成績や評価として表示されることもあるが本来はかたちを持たないものだ。
というのは、「学ぶ力」とは
「自分の無知や非力を自覚できること」
「自分が学ぶべきことは何かを先駆的に知ること」
「自分を教え導くはずの人(メンター)を探り当てることができること」
といった一連の能力のことだからだ。
これらの力は成果や達成では示されない。
学ぶ力は「欠性態」としてのみ存在する。
何かが欠けているという自覚の強度のことを「学ぶ力」と呼ぶのである。
「おのれの未熟の自覚」、「ある種の知識や技能についての欠落感」、「師に承認されたいという欲望」といったものは存在するとは別の仕方で私たちの生き方に深い影響を及ぼすのである。
「学ぶ力」は欠性的にしか存在しない。
〜中略〜
「言葉の力」という本題に戻る。
私が言いたいことはもうだいたいおわかりいただけたと思う。
人間的な意味での「力」は、何を達成したか、どのような成果を上げたか、どのような利益をもたらしたかというような実定的基準によって考量すべきものではない。
「言葉の力」も同じである。
「言葉の力」はそれが達成した成果やそれが発語者にもたらした利益によって計測されるのではない。
そうではなくて、「言葉の力」とは、私たちが現にそれを用いて自分の思考や感情を述べているときの言葉の不正確さ、不適切さを悲しむ能力のことを言うのである。
言葉がつねに過剰であるか不足であるかして、どうしても「自分が言いたいこと」に届かないことに苦しむ能力を言うのである。