読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

365歩のMarch♪

今の自分にふさわしい未来がやってくる。


内田樹の研究室からコピペ


                                                                                      • -


「なまの現実」というのは、端的に言えば、「生き死ににかかわること」である。

例えば、医療の現場では、そこに疾病や傷害という「なまの現実」がある。

それを手持ちの医療資源を使い回して「どうにかする」しかない。

「こんな病気は存在するはずがない」とか「こんな病気の治療法は学校では習わなかった」という理由で診療を拒むことは許されない。

とにかく何かしなければいけない。

池上六朗先生は患者が来たら「何かする」のが治療者である、とおっしゃったことがある。

「正しい治療」をするのではない。

「何かする」のである。

治療は「結果オーライ」だからである。

人間の身体のような「なまもの」は「正しい治療」をすればさくさくと治癒するというものではない。

「正しくない治療」をしても、治療者が確信をもって行い、患者がその効果を信じていれば、身体的不調が治癒することがある。
新薬の認可がなかなか下りないのは、「画期的な新薬」を投与したグループと「これは画期的な新薬です」
と言って「偽薬(プラシーボ)」を投与したグループのどちらの患者も治ってしまうので、薬効のエビデンスが得られないからである。

その点では、現代人に呪術医療を侮る資格はないのである。

池上先生は大学病院が匙を投げた難病患者を受け容れたときに、することを思いつかなかったので、とりあえず「九字を切った」ことがあるそうである。

「臨兵闘者皆陣列在前」と唱えて空中で縦横に指を切ったら、患者は治ってしまった。

池上先生は患者が来たらいつも九字を切るわけではない。

そのときは「たまたま」九字を切りたい気分になったそうである。

治療者の資質はたぶんここに現れる。

「なまもの」相手のときは、マニュアルもガイドラインもない。

「なまもの相手」というのは、要するに「こういう場合にはこうすればいいという先行事例がない」ということだからである。

どうしていいかわからない。

どうしていいかわからないときにでも、「とりあえず『これ』をしてみよう」とふっと思いつく人がいる。

そういう人だけが「なまもの相手」の現場に踏みとどまることができる。

どうしていいかわからないときにも、どうしていいかわかる。

それが「現場の人」の唯一の条件だと私は思う。

私が知り合った「理系の人たち」はどなたもそういう「なまの現場」に立っている方たちである。

現場にとどまり続けるためには「わからないはずなのだが、なんか、わかる」という特殊な能力が必要である。

そのことを先端研究にいる人たちはみんな熟知している。

だから、その「特殊な能力」をどうやって高いレベルに維持するか、そのことに腐心する。

先に名前を挙げた方たちのふるまいをみていると共通点がある。

それは「やりたくないことは、やらない」ということである。

これは領域を問わず、先端的な研究者全員に共通している。

やりたくないことを我慢してやっていると、「わからないはずのことが、わかる」というその特殊な能力が劣化するからである。

どうしてだか知らないけれど、そうなのである。

だから、自分に負託された使命が切迫している人ほど「特殊能力の維持」のために、さまざまなパーソナルな工夫を凝らすようになる。

池上先生が水に潜ったり、三砂先生が着物を着たり、池谷さんがワインとクラシックにこだわったり、茂木さんが旅したりするのは、それぞれのしかたで「そうすると、自分の特殊な能力が上がる」ことがわかっているからである。

別に趣味でなさっているわけではないのである。

「やりたくないことは、やらない」という厳しい自律のうちにある人たちは、だから総じていつも上機嫌である。

上機嫌であることが知性のアクティヴィティを(「おめざ」のあんこものと同じくらいに)向上させることを彼らは知っているから、「決然として上機嫌」なのである。

オープンマインドとハイ・スピリット。

これが知的にアクティヴな人の条件である。

そういう人たちが「ダマ」になっている学術領域は「生きがいい」ところである。

不機嫌な人や、威圧的な人や、心の狭い人や、臆病な人や、卑屈な人がマジョリティを占めているような学術領域は「先がない」。

現在のその学術領域に配分されている予算や、大学教員のポスト数や、メディアへの出場頻度や、政府委員の数や、受勲者リストの長さなどとは何の関係もなく、「先がない」のである。

ある学術領域が「生きている」かどうかは、そのフロントランナーたちが「なまもの」を扱っているかどうかで決まる。

第一線に立つ人たちが、「それをどう扱っていいか、まだ誰も知らない素材」を扱っているかどうかで決まる。

私はそんなふうに考えている。



                                                                            • -


すべてに納得いく訳ではないけれど

参考になる点は幾つかあるかと。


ふむふむ。