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内田樹の研究室からコピペ
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「なまの現実」というのは、端的に言えば、「生き死ににかかわること」である。
例えば、医療の現場では、そこに疾病や傷害という「なまの現実」がある。
それを手持ちの医療資源を使い回して「どうにかする」しかない。
「こんな病気は存在するはずがない」とか「こんな病気の治療法は学校では習わなかった」という理由で診療を拒むことは許されない。
とにかく何かしなければいけない。
池上六朗先生は患者が来たら「何かする」のが治療者である、とおっしゃったことがある。
「正しい治療」をするのではない。
「何かする」のである。
治療は「結果オーライ」だからである。
人間の身体のような「なまもの」は「正しい治療」をすればさくさくと治癒するというものではない。
「正しくない治療」をしても、治療者が確信をもって行い、患者がその効果を信じていれば、身体的不調が治癒することがある。
新薬の認可がなかなか下りないのは、「画期的な新薬」を投与したグループと「これは画期的な新薬です」
と言って「偽薬(プラシーボ)」を投与したグループのどちらの患者も治ってしまうので、薬効のエビデンスが得られないからである。
その点では、現代人に呪術医療を侮る資格はないのである。
池上先生は大学病院が匙を投げた難病患者を受け容れたときに、することを思いつかなかったので、とりあえず「九字を切った」ことがあるそうである。
「臨兵闘者皆陣列在前」と唱えて空中で縦横に指を切ったら、患者は治ってしまった。
池上先生は患者が来たらいつも九字を切るわけではない。
そのときは「たまたま」九字を切りたい気分になったそうである。
治療者の資質はたぶんここに現れる。
「なまもの」相手のときは、マニュアルもガイドラインもない。
「なまもの相手」というのは、要するに「こういう場合にはこうすればいいという先行事例がない」ということだからである。
どうしていいかわからない。
どうしていいかわからないときにでも、「とりあえず『これ』をしてみよう」とふっと思いつく人がいる。
そういう人だけが「なまもの相手」の現場に踏みとどまることができる。
どうしていいかわからないときにも、どうしていいかわかる。
それが「現場の人」の唯一の条件だと私は思う。
私が知り合った「理系の人たち」はどなたもそういう「なまの現場」に立っている方たちである。
現場にとどまり続けるためには「わからないはずなのだが、なんか、わかる」という特殊な能力が必要である。
そのことを先端研究にいる人たちはみんな熟知している。
だから、その「特殊な能力」をどうやって高いレベルに維持するか、そのことに腐心する。
先に名前を挙げた方たちのふるまいをみていると共通点がある。
それは「やりたくないことは、やらない」ということである。
これは領域を問わず、先端的な研究者全員に共通している。
やりたくないことを我慢してやっていると、「わからないはずのことが、わかる」というその特殊な能力が劣化するからである。
どうしてだか知らないけれど、そうなのである。
だから、自分に負託された使命が切迫している人ほど「特殊能力の維持」のために、さまざまなパーソナルな工夫を凝らすようになる。
池上先生が水に潜ったり、三砂先生が着物を着たり、池谷さんがワインとクラシックにこだわったり、茂木さんが旅したりするのは、それぞれのしかたで「そうすると、自分の特殊な能力が上がる」ことがわかっているからである。
別に趣味でなさっているわけではないのである。
「やりたくないことは、やらない」という厳しい自律のうちにある人たちは、だから総じていつも上機嫌である。
上機嫌であることが知性のアクティヴィティを(「おめざ」のあんこものと同じくらいに)向上させることを彼らは知っているから、「決然として上機嫌」なのである。
オープンマインドとハイ・スピリット。
これが知的にアクティヴな人の条件である。
そういう人たちが「ダマ」になっている学術領域は「生きがいい」ところである。
不機嫌な人や、威圧的な人や、心の狭い人や、臆病な人や、卑屈な人がマジョリティを占めているような学術領域は「先がない」。
現在のその学術領域に配分されている予算や、大学教員のポスト数や、メディアへの出場頻度や、政府委員の数や、受勲者リストの長さなどとは何の関係もなく、「先がない」のである。
ある学術領域が「生きている」かどうかは、そのフロントランナーたちが「なまもの」を扱っているかどうかで決まる。
第一線に立つ人たちが、「それをどう扱っていいか、まだ誰も知らない素材」を扱っているかどうかで決まる。
私はそんなふうに考えている。
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すべてに納得いく訳ではないけれど
参考になる点は幾つかあるかと。
ふむふむ。