365歩のMarch♪

今の自分にふさわしい未来がやってくる。

 逝かない身体―ALS的日常を生きる

逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)

逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)


p.22
「でも家族は病身の要求に応えるだけで精一杯で、決別も継続も含めて覚悟を迫られることは苦手なのだ。ALSの患者家族に対するサポートは、当時も今も情けないほどの欠乏状態だ。だから患者は自分で決めろといわれても将来設計などできようもないし、日々の生活だけで忙しく、呼吸器を利用するためのの準備もまったく進まないのが普通である。」


p.51
「自分たちにも「できる」という気持ちになり、在宅療養に向けて一歩を踏み出すことができたのだから。神経内科医のもっとも重要な仕事のひとつに、家族をいかにその気にさせるか、ということがある。「できる」と思うわせるか、それとも「できない」と思わせるかは、その医師の心掛けしだいなのだが。」


p.65
「長生きのALS患者は、自己愛と存在の絶対的肯定によって支えられていた。これも患者さんたちとの交遊からわかったことだが、病に侵されて何もできなくなってもなお自分を大切にできる人は、弱く衰えた自分でも愛せる自由で柔軟な思考回路の持ち主であった。」


p.108
「どんなに重症の患者でも、自分は人として最期まで対等に遇されるべきだという意識で満たされている。
(中略)
最近では、そのような者への医療を切り詰めることへの正当性さえ露骨に語られているのである。
特に直接的なサービスの現場では、患者への嫌悪は「親身な助言」というオブラートに包まれて表れる。つまり「こんな身体で生きていいても無意味でしょ?」とは言わないとしても、どんなに療養上の苦労が多いか、お金がかかるか、毎日が無意味に過ぎていくかなど、強い恐怖感を引き起こすようなメッセージを伝えて、生死の判断を当事者に委ねるのである。
(中略)
残念ながら、病院や役場の窓口での扱われ方と患者本人の自己意識とのギャップを埋めることは容易ではない。
(中略)
自分だけが広大な宇宙にただ独り、ぽっかりと浮かんでいるような孤独こそが、運動神経系麻痺以上に切なくてたまらない。
10万人にたった3、4人という希少な運命が、最も融通のきかない「障害」なのだ。」


p.138
「重い病と暮らすつもりなら、時間を味方につけることだ。母の口癖だった「いつまでも同じ悩みが続くことはない」は、介護の場面でもしばしば思い出された。」


p.163
「病人の経管栄養が私たちの夕飯のにおいと変わらないというのは、なんとも幸福な感じだった。」


p.181
「しかし、私たちに欠如しているのは患者を死なせるための法でも医療でもなく、あるがままの生を肯定する思想と患者にとって不本意なレスパイト入院などせずに済むような、良質で豊富な在宅介護サービスではないだろうか。」


p.182
「実際のところとてもたくさんのALSの人たちが死の床でさえ笑いながら、家族や友人のために生きると誓い、できるだけ長く、ぎりぎりまで生きて死んでいったのである。だから、あえて彼らのために繰り返して何度もいうが、進行したALS患者が惨めな存在で、意思疎通ができなければ生きる価値がないというのは大変な誤解である。
病人のなかには、自分では生きる意味も見出せず、呼吸する動機さえ乏しくなっていく者もいる。しかし、生きる意味は「他者」によって見出されるものでもあろう。
(中略)
母はまっすぐに死に向かっているわけではなく、むしろ生きつづけて私たちを見守るために、途切れなく続く身体の微調整と見守りのための膨大な時間を求めてきた。
(中略)
死だけが不可逆的なのである。生きて肌に温もりが残るあいだは改善可能性が、希望が残り続けている。だからあの母親の感情の発露のような「あなたの温もりだけが愛おしい」という叫びは、まったく間違ってなどいなかった。
(中略)
死の恐怖が否定されるかわりに、病人の生の恐怖が蔓延しようとしているのである。」


p.185
「「ただ寝かされているだけ」「天井尾を見ているだけ」と言われる人の多くは、無言でも、常に言いたいこと、伝えたいことで身体が満たされている。ただ、そばにいてそれを逐一、読み取る人がいないだけなのだ。」


p.200
「脳は人間の臓器のなかでもっとも重要で特別な臓器と思われているが、母は脳だけでなく心臓も胃腸も肝臓も暴行も同じように萎縮させ、あらゆる動性を停滞させて植物化しようとしている。
(中略)
そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。みすろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。
(中略)
ここからは簡単だった。患者を一方的に哀れむのをやめて、ただ一緒にいられることを尊び、その魂の器である身体を温室に見立てて、蘭の花を育てるように大事に守れば良いのである。」


p.211
「自分が伝えたいことの内容も意味も、他社の受け取り方に委ねてしまう―。このようなコミュニケーションの延長線上に、まったく意思伝達ができなくなると言われるTLSの世界が広がっている。」


p.218
「しかしそんなことより、ALS患者とのコミュニケーションから学ぶことは別にあるだろう。たとえば、患者は誰にでも気軽に話しかけたり答えたりはしないということである。コミュニケーションに証拠を求めるような人には話しかけたくないのである。
(中略)
それに「私にしか読み取れない」とか、「私がいなければこの人は困る」という状況は、ケアに従事する者のプライドを刺激するのである。」


p.220
「橋本みさおさんは「死にたい人はいない」と言っていたが、「生きていたくない人」も大勢いるはずだ。」


p.222
「患者さんの書かれたものに「過去に比べるといつでも今が最悪ですから、おそらく将来に対しては、いつでも今が最善ということですが、つまり現在は最悪と最善の接点ということになります」という言葉がります。この考え方は、なかなか私たちには出てこない。だんだん悪くなり、昨日より今日が悪い、今日より明日が悪い、だから今日の方が明日より幸福だと。毎日毎日が幸福の、つまり先と比べれば、幸福の連続にある。
(中略)
[大宮溥 『今日を生きる言葉一日一篇』より]」


p.237
「学校で医療を学んだ人からみると、医学的には間違っていることも当然あったはずだが、本人の意思を尊重できるのが在宅介護の良さでもある。


p.256
「母は六年以上もその瞼さえ自力で開けられないほどの状態だったが、住み慣れた家の自分の部屋で毎日同じ人たちに囲まれて、同じ時間に同じケアを受けることができて、安心していたのだ。このような病人にとって、これがもっとも理想的な生活なのである。それが普通の人にはわからない。退屈で虚しいだろうと思われてしまう生活こそが、重症患者のささやかな幸せの一部だということが。」


p265
「辛い?苦しい?が繰り返されるなかで様々な工夫屋知恵が生み出される末期の看病と、そこに確かに存在する希望とを私は描いてみたかったのですが……。そう思うとなおさら、今の医療は希望と祈りの時間を手放して、法の力で彼らを死に廃棄しようとしているような気がしてなりません。」






                                  • -

なかなかに興味深く読めた本だった。


自分にとっては

作者が母親の生への解釈を

変化させていく描写が印象的であった。

生きる意味は「他者」によって見出されるものでもあろう。

蘭の花を育てるように大事に守れば良いのである。


あなたがいるから

私は生きたい。


私には必要だから

あなたに生きていて欲しい。


双方向の信頼が

生きる意味を生み出していく。


生きるということは

信頼に基づく

コミュニケーション

なのかもしれない。


たしかに小さなことで言えば

無視をされれば

自分の存在意義を否定された気にもなる。

お互いが

お互いを必要としていれば

どんな状況であれ

意味はある。


そんなことを思うと

ちゃちな結論かもしれないけれど

人は

あくまで社会的な存在なのだと思う。

他者を通じて

自分を認識している

自分を許すことができる。


そんなことを思い

ふと自分の身を省みて

感謝の念が湧いてくる。


今この場にいられることを

感謝する。



この本では

医療に関わる者たちへの

作者からの皮肉がみてとれる。

その点で考えさせることも多々ある。



一方で思うのは

この本で描かれている

介護者と被介護者の関係性は

普遍的なものを含んでいるのではないか。


そんなことを想うと

これまでの仕事への関わり方は

なんと表面的であったことか。

そしてまた

自分がそこまで深く介入することを

避けているということも自覚された。


理学療法士だからここまでですよ

それ以上は

自分の領分ではありませんよと。


そんなことを思う。


おそらく今後

言われているとおり

今よりもずっと

在宅介護の重要性が高まってくる。


そして作者も言う通り

在宅介護の良いところは

本人の意思が反映されやすいことだ。


何度も個人的には書いているけれど

理学療法をしたくても

そのまま提供できるわけではない

やはり

リハビリテーションが求められている

しかも

患者や

家族が思う

リハビリテーションが求められている

と感じる。



だから

その専門性に照らし合わせて

その患者さんに適応があるかどうか

判断するのも

「その専門性を活かす」という意味では

有効ではあるのかもしれないが

患者やその家族が求めているにも関わらず

専門的な見地から

適応がないと判断してしまうのは

不遜な態度であろうし

それこそ

今後の在宅介護の現場で

生き残っていくことはできないだろう。


思うに

今後は

理学療法士

理学療法をやりたいといって

受け入れてくれる社会には成りえないと思う。

細々とやっていくのは許されるにしても

社会は応援してくれないだろう。


在宅介護を支える一員として

患者や家族のニーズに

寄り添い

社会の要求に

可能な限り答えようとすること

その多様性

臨機応変に対応すること

そういうことが

求められている。


そして多様性の中に

傾向をみつけ

パターン化し

普遍化し

共有し

価値あるものとしていくことが

一方で求められる

のではないだろうか。


その中で生きていくには

今の自分の対応の仕方では厳しい

と思うと同時に

自分の職場環境は恵まれており

取り組み方によっては

大きく得るものがあるのではないか

と思えてきた。



最後に

「逝かない身体」というタイトルを見て

思ったことが一つ。


普通

「逝かない」なんてことは有り得ない。

否が応にも逝ってしまうのが身体である。


「逝かない」と敢えて言うからには

その言葉の裏には

カッコして

「(逝って欲しいけど)逝かない身体」

または

「(逝きたいけど)逝かない身体」

となっているのではないかと思う。

さらに

(逝きたいけど)の場合には

筆者が主体となっている様に思うので

「逝けない」という言葉の方が

シックリくる。


だから個人的には

このタイトルは

娘である筆者が

実は

(逝って欲しいけど)

というカッコ書きのもとに

「逝かない身体」

としたのではないかと

変に勘ぐってしまった。


とは言え

本の内容からは

葛藤しながらも

生を肯定していく過程が見られ

もしかしたら

「死に廃棄しようとしている」

法や

医療や

経済に対して

「(そういう理屈には負けずに、ただでは)逝かない身体」

という宣戦布告の様な意味合いもあるのかな

と思った。


長々書いたblogのオチとしては

イマイチだけど

良い本であったのは

間違いない。


学ぶことの多い

おもしろい本だった。




この作者に

うちの弟がインタビューしてる記事

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