365歩のMarch♪

今の自分にふさわしい未来がやってくる。

先日あった同窓会

思ったことが一つ。



参加した男性陣は

揃いも揃って

よく出世されている。


そもそもが

世界一の日本車企業に勤めていて

南アフリカへの転勤から

一時帰国する友が企画したもの。

偶然集まったのは

フリーのアナウンサー

IT関連企業社長

など。


うーん。

収入面ではたしかに考えさせられてしまった。

フリーのアナウンサーは

フリーになった時に

年収が○○万に下がってしまったと

ボヤいていたが

それでも俺より上なんだから参る。


他にも

スーパーブランドの

財布とか

鞄とか

良い物をお持ちだった。

面白い話も聞けたし

収入がイイのは

それだけのリスクも背負っているからだ

というのも分からなくはない。


羨ましいか

羨ましくないか

と問われれば

正直

羨ましい。


うん。

とても

羨ましい。


確かに

それくらい稼げるようになれたら

イイなと思う。


しかし

単にお金が欲しいのか?

という問いの立て方をすると

ちょっと事情が変わってくる。


それよりもっと欲しいモノがある。


パッと思うだけでも

英語運用能力を高めたいし

日常生活がまるまま英語になったとしても

困らない能力が欲しい。


さらに欲しいのは

患者さんにとって

ためになる

知識

技術が欲しい。


しかし

結局

技術知識じゃ意味なくて

困っていたり

塞いでいたり

暗い気持ちになっている

患者さん

ご家族を

少しでも

明るい気持ちにできる

人間性が欲しい。


って書くと

イイこと書いてるっぽいけど

結局

訪問して

自分が

その方にとって

ホントに役立ってなくて

意味のない存在であることを

自覚せざるをえない

自己の存在意義を

まるで見い出せない

あの

虚しい感覚を

味わいたくない

というのが

本音かもしれない。


結局

理学療法士として

介護保険制度の

訪問リハビリテーションサービスに

関わっているものの

そんなのホントは関係なくて

どんなことであっても

その方の役に立って

少しでも

自分がそこにいても良いのだ

という感覚を得ていたい。

という

小さな自分の

identityの確保なのかもしれないが

自分が欲しいものは

そういうものだ。


自分が伺うことで

訪問先の方が

少しでも

何らかの形で

楽になれるのなら

この上なく嬉しいと思う。


その方が

心穏やかに

毎日を過ごすことができる。



だから

年収何千万とか

良いんだけど

切望するとか

渇望するという

程の次元ではない。

そんなん貰ってる

自分も想像できない。


だから

こうなんだろうけど。


とにかく

こういうことを

改めて自覚する

良い機会になった。


決して

高い年収になりたくない訳ではないが

自分の心の平和のためには

そういうことを追求する生き方の方が

良さそうだ。


青臭いけど

そう思った。


しかし

これも

もしかしたら

家族がいたら違うのかもしれない

もっといい暮らしを

させたいとか

楽させたいとか

思ったら

ちょっと違う気もしなくもない。


少なくとも

いい部屋住んで

何にも干渉されない

ありがたい暮らしをさせて貰っているから

こんなこと思えているのかもしれない。


であるならば

それはそれで

ありがたいことだ。

感謝。