365歩のMarch♪

今の自分にふさわしい未来がやってくる。


一昨日発売されたBRUTUS

気になることが書いてあったので

記載してみる。

寄稿しているのは

最近

気になりだした

内田樹

まっとうな事を言っているなと

面白い。

そして

自分のblogでないせいか

語り口調も分かりやすい。


以下に気になった箇所を抜粋しておく。


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『労働はその営みを終えてしまった後でなければ、自分が何を成し遂げたのかが分からないように構造化されています。

それどころか、労働し終えてすぐに振り返ったのでは、まだ労働の意味は分からない。

労働の意味は文脈依存的だからです。

歴史の中においてみなければ、労働の意味は見えてきません。

ずいぶん時間が経ってから振り返ると、やっと「あぁ、ぼくはこういうことがしたかったのか」ということが分かる。

むろん、それでもやったことの意味が全部分かるわけではありません。

 意味の深い労働行為というのは、前段があります。

どうしてそのような労働をすることになったのか、その時には分からない何かが動機になっている。

だから、時間的に大きな視野をとると、「なるほど、そういうわけで、僕はこの事をしたのか」というのが分かる。

一つの行為は、できるだけ長い文脈の中に置かれるほど、その意味がはっきりしてくる。

前後に広がる時間帯が長ければ長いほど、、労働の意味は鮮明になり、豊かになり、厚みを増してくる。

そういう意味で労働は時間的であると僕は思うのです。』

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この一文を改めてこうして記載してみて

この本の書き出しに

『ある人が真になみはずれた人物であるかどうかは、幸運にも長年にわたってその人の活動をみ続けることができたときに、初めてよくわかる。』

なんてことが書いてあったのを

思い出した。




別に「労働」に限らず

ある行為をする時に

はじめる前の時点で

意味の有無を語るのは

おかしなことなんだなと思う。


はじめる前の時点でも

終わった後の時点でも

意味が分からないなら

成功するかしないかを案ずるなんて

それこそ対して意味がない。


せいぜい分かるのは

やらないより

やった方がマシ

かもしれない…

程度じゃないだろうか。


だから

それで済むことならば

自分がやりたいのなら

やればいいし

やりたくなければ

やらなくていい。


行為の可否を

人に語られるなんて

おかしなことだ。


これから先

きっと

意味が分かるときが来る。

そして

きっと

自分には大きな意味があった

と思えるだろう。


そういう生き方をしていくはずだから。