365歩のMarch♪

今の自分にふさわしい未来がやってくる。


昨日

勉強会に出席し

大学院進学を相談している先生に

こんな事を言われた。



「あんなモノは足の裏についたご飯粒と一緒だ。」


曰く


「取っても食べられないけど

取らないと気持ち悪い。」



この言葉はやけに納得がいった。



“あんなモノ”とは“修士号”のことである。



まぁ

その後どーするかだよ

ってことを

暗に仰っていると思う。



自分にとって

修士号とは・・・

教員になる一つの道とか

存在証明の単なる一つとか

自分の専門性の証明とか

なんとなく意味はあるけど

一方で

それを持ってたって

大して何かが変わるわけじゃないよな・・・

もってるヤツはいくらでもいる訳だし・・・

という思いもなくはない。


でも今は

正直そんなことより

先生がどんなこと考えてるのか

傍で空気を吸ってみたい

そんな単純な思いだったりしなくもない。




ということを

このblogの記事を読みながら思った。

池谷裕二の本を読んでいる最中で

ホントにタイムリーな話。



ある程度以上持続して知的活動を高止まりさせておくためには、

「自分でこの難問が解ける」という確信ではなく、

「〈誰か〉がすでに解いた」から「〈誰か〉がいずれ解いてくれる」

ということについての確信が絶対に必要である。”


と言うことは

まさしく自分の知的好奇心を

刺激し続けていることを

言い当てている。


あの先生なら

分かってるんじゃないか

という期待以外の何ものでもない。


もちろん

期待過剰な部分があることだって

否めないが

既に

残しているモノを参考にするだけで

不思議なことが起きているから

決してガッカリすることはないんじゃないかなと。


そして

もしこうした考え方が

スタンダードとして広まっていった時

自分じゃない他の誰かでも

きっと証明してくれるんじゃないか

そんな期待もあって

じゃあ

一子相伝みたいな

秘術っぽくなくて

科学的な解釈を基に

できる限りスタンダードにしていきたいなと

そんなことに一役かえたらいいなと

そんな思いもなくはない。


そしてまた

さっきの記事を読んで

子どもは

「子どもには見えないものが見えている人」

「子どもには理解できない理路がわかっている人」

を想定しない限り

子どものレベルから抜け出すことができない。”

という話の中での

その人の存在が

頭の中から消えてしまいそうなほど

独善的で子供な自分がいてしまうから

客観的に物事を俯瞰して

謙虚に振舞いながら

一歩でも

二歩でも

成長していける

自分でありたいと思う。


そう

いきなり質問しに来た人間に対して

膝を突き合わせて

真摯に答えられるくらい。